雑記

 生活するには労働をするということが欠かせない。

 労働とはなんだろう。今でもわからないでいる。

 小学生の時分、家族旅行で福島へスキーをしに行った。随分といいホテルに泊まったことを覚えている。福島へのスキー旅行は、毎年のように父の運転する車で向かった。だけども、確かその年は新幹線を使った。電車を使うと乗り継ぎを強いられる。だから降りる町々の駅前の空間だけでも知ることができて、今思うと結構良い。

 その年も初日だけスキーのインスタラクターについてもらった。もう随分と滑れるようになっていたから、それが最後のインストラクターだった。そのインストラクターは、大学生くらいのお姉さんで、リフトを使って山を登る間、色々な話をした。

 生活や労働ということについて考えると、必ずこのお姉さんと話したことを思い出す。

 福島が好きで、スキーが好きだということ。関東にヨークマートはあってもヨークベニマルという名前ではないことに驚いていたこと。そのヨークベニマルのイントネーションで一悶着あったこと。スキーの後に足が凍えるのが嫌なのであれば、ココアを飲むと癒されること。またココアのイントネーションで一悶着あったこと。

 これらの話を思い出す度に結局考えるのは、ヨークベニマルなんてものは認められないということである。

この話は大体が嘘で構成されています。

 計画というものに苦手意識がある。と言っても、苦手そのものなのだけれど。

 あれは確か大学2回生になる直前のことだった。

 大学1回生の春、大学側の不手際か何かで郵送された追加の教科書があった。その教科書代が後になって請求されたのだけれど、それを払いに行くのに半年以上かかった。

 別に金銭的に切羽詰まっているわけではなかった。生まれが裕福なものだったから、奨学金とは都市伝説の類いだと思っていたし、実家のある関東から関西の大学に入学したのも、まあ、正直に言えば、桃色の性生活を楽しむためで、それがなんの不安もなくできたのは親の仕送りがあったからという、いや、まあ、なんと言うか、つまり、バイト代もしっかりと溜まって、家賃光熱費諸々の心配が無い状態だったから、決して、教科書代が払えないというわけではなかった。

 であれば、何故たったの2000円弱が払えなかったのだろう。それを説明するには、時間という概念について説明する必要がある。しないけど。

 まあ時効なので白状するが、大学一回生の2月、春休みのことだが、私は特にすることも無いのでウイスキーと炭酸水を買い込んで、一人ハイボール祭りというものを開催していた。深夜に起床して昼までハイボールを飲みながらアニメを見るというものである。鳴り止まぬ幾人もの女子からの電話を無視しながら行うその祭りは非常に楽しかった。インターホンが鳴るようになってからのことは別の話だが。

 閑話休題。教科書の話に戻そう。

 それで、深夜から飲み続けて酔いがまわりだした朝方、私の頭には行わなくてはならないタスクが蚊帳の外の虫みたく羽音を轟かせていた。教科書代を振り込まなくてはならない。しかし、教科書代を振り込むのは問題ないが、その工程には問題がある。金はあるがそれを振り込みに銀行へ向かう時間が惜しい。酔いがまわっている青少年にはその程度の労力が、二日酔いの中で8時間程のアルバイトへ向かうものよりも重かった。

結局その教科書代を振り込んだのは、大学事務部より通達された最後通告的な、それに似通った何かが郵送されてからのことだった。

 正直今でもその気はある。何故こんなどうでもいいことを書いているかというと、それに似た状況が今この身に降りかかっているからだ。

 払わなきゃまずいかな?本当に面倒くさい。

 

白湯氏、認める。

 来を堂々闊歩することも儘ならぬこの御時世の中、白湯氏は、暇を持て余した神々の一角を、誰に頼まれたわけでもなく、至極純粋なボランティア精神の上にあぐらをかいて担っていた。

 氏は、名だたる神々の一員として、その持てる暇の数々を、Netflixで下品な映画の捜索や、よくわかりもしない、高尚な哲学書を読んだ気になってはまとめサイトで調べあげ、SNSで悩める女子の愚痴を拾い上げては

どしたん?話聞こか?

などと、Lineやリプライ、DMを送り、下品な映画や哲学書の話題などを持ち上げて、その持て余す性欲を発散させようとしていた。

 そのため、氏は句読点の打ち方すら忘れてしまった。

 これでは、あの大口を開けながら間抜けな顔でモエ〜と口走るだけの名だたる神々と同列に扱われてしまう、と危惧した氏は、すぐさま異世界転生を始めそうな文章力を向上させるため、ブログを始めることとした。